2021年1月13日水曜日

より良いものを作るには、感覚を研ぎ澄まさなくてはならない。また既知の知見を集めることも重要だ。知見は、文字に書かれた情報だけではなく、実践がともなっていなければならない。さまざまな情報、図とか、動画とか文字情報以外の情報があるわけだが、それでも実際にやってみないことにはその真意はわからない。できるというのは、頭ではなくて、からだで体得するものだ。

資本主義の発展の中では、すべての人は消費者にされてしまったが、与えられたもの=商品を「買って使う」よりも、「作ってみて知る」ことに意義があるはずだ。戦後日本に自作文化が根付いたのは、貧乏で買えないラジオやテレビを自作したからだけではない。知への欲求がそうさせたのだと考えた方が良い。ラジオ発展の歴史を見ると、その泰明期もは誰でもが自由にラジオ局を開設できたし、そのための情報と資源はお金さえあれば入手可能であり、またそれが推奨されていたのである。

今後の社会が環境資源の枯渇と面と向かわざる負えなくなる時代には、作り手と使い手、売り手と買い手の分断を止める必要がある。自分自身にとって必要な資源は、自分自身で作り出すという小さな資源の循環を有効にしていく必要があるだろう。単なるホビーだと思われてきた自作文化も考え方によっては、深い思想を知る端緒となるのではないだろうか。そう考えると料理をすることも、真空管アンプ作りもそれほど離れたところにあるものではない。

エジプトのピラミッドや世界中にある数々のモニュメントを上げるまでもなく、記憶を後世に留めるためにこうした物体が構想され、実体化されてきたのである。それは本来情報は物によってのみ保持されると考えられてきたからだが、デジタル技術の出現で、物と情報を分離して考えるようになった。物にまつわる情報だけが取り出され、収集され、それらの情報を数値処理できるようになった。情報のコレクションがさらに情報を産み、それに新しい価値を与えさえするようになった。物の情報は、インターネットによって自由に流通するようになり、古い価値体系を破壊しつつある。結果、これまで流通しなかった情報が流通し、商品になりずらかった物(=情報が足らない物)が商品になることを可能にした。

真空管は人工的に作られた電子デバイスで、仕様規格書がないとその使い方が解らない。真空管という物とその使い方の情報がセットになって、初めて物としての意味が発動する。もしも、その仕様書を封印してしまえば、技術者には特権を与えることができるわけで、これがいわゆる「企業秘密」である。しかし、すでに開発製造から100年近く隔たった真空管の規格書は完全にパブリックドメイン化されており、誰でも、ほぼどんな真空管でも規格書を探し出すことができるようになった。情報には事欠かないわけで、後はブツ(真空管)が手に入れば、自分で設計した回路を自作することができる、というわけだ。

ここに、本当の意味の自由がある。かつて企業や資本によって独占されていた情報へのアクセスとそれを自分の好きなようにする自由である。その自由を行使することで、やっと個人としての自分が地面の上に立てたと感じることができるのである。



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